「何をしてもいい」ということ

「何をしてもいい」ということ

2025年8月4日

先日、各地で居場所をやっている方々との会合があり、
参加してきました。
お休み学園と共通の子どもたちが通う居場所もあり、
子どもたちの様子や、それぞれの居場所やフリースクールの思いを聞けて、共有できて
とても良い時間になりました。

最近、といっても、ここ1、2年
私の中でも、お休み学園をするにあたって
考えること、悩ましいことが
増えていたこともあって、
同じような立場の方々と、
話せる機会は、とてもありがたかったです。

皆さんと話していて感じたことは、
お休み学園は他の居場所と比べると割と厳しい場所なのかもなと思ったのが率直な思いでした。
でも、私にとって、この厳しさは、「人として当たり前のこと」だと思っていて、
(例えば、使ったものはしまう。とか、出したものは片付ける。とか、
道具は正しく使う。とか、食べ物を粗末にしない。とか、
本当に、当たり前と思うことを、やらない子、できなかった子に、声をかける。
人と人との関係で、嫌だっていうことはしない。とか、
自分の主張を自分で伝える。とか、そういうことです。)
それを知らない子どもたちがそれを知っていくっていうこと自体が
とっても大事な学びだと思っています。
しかもその経験が、家族以外の人との関わりで学べることって
めっちゃ大切だと思っています。

そんな中、ある不登校についての番組で、
不登校容認側の居場所を経営している方が
「ここは何をしてもいい居場所」と言っていて、
ほぉと思いました。

「何をしてもいい」って、めっちゃ難しいことだからです。
完全な自立と責任を伴うから。
大人だって、できていない、持っていない場合がほとんどで、
自分で考えることをせずに、
責任を取れずにいる大人がほとんどのなくらいなのだから。
めっちゃ難しいことだと思うんです。

支援者の言う「何をしてもいい」って
正確には(ここのこの範囲で、常識的なこの範囲において)って言うのが
暗黙の了解で含まれていると思うんです。
でもそれって、子どもに取ったら「やっていいって言ったじゃん!!」っていう
相互の受け取りのずれが絶対生じると思います。
その状態から、ルールが出来上がっていくって言う過程はもしかしたら素晴らしいかもしれませんが。
畳の上で花火をしてはいけません!とか、
お友達の近くで包丁を振り回してはいけません!!とか。
子どもの受け取る「何をしてもいい」は本当に自由ですから。

『何をしてもいい』って、
すごくいい響きとは思いますが、
先に大人が掲げてしまうのではなくて、
何をしてもいいの範囲を、その子が自分自身の体験によって掴むことが大切なのではと思うんです。

AくんがBちゃんに、
Bちゃんが気にしている身長のことをどストレートに
「Bちゃんはチビだよな。」と言ったところ、
Bちゃんが傷ついて泣いてしまいました。
周りの子どもたちに「ちょっと何言ってんの!」とか、「泣かして酷い!」とか、言われます。
ウッてなってるAくんです。
謝れませんが、やっちまった。と思ってる顔をしてます。
みんな、Bちゃんの肩を持って、行ってしまいました。
ポツンと残されたAくんに私は「やっちまったなぁ。」と言いました。
Aくんも「なぁ…」と言いました。
この体験で、Aくんの『何をしてもいい』に「人にチビと言っていい」は入らなくなったと思うんです。
何をしてもいいの範囲を自分の体験で掴むことの事例です。

こういう体験こそが、宝物で、
だからこそ、子ども時代の同年代との関わりってとっても大切!!
と、思うんです。
私が、お休み学園をやる所以です。

社会にはルールがすでにあります。
人が集まれば、自ずとそこにルールができます。
一番最初で一番小さな集団が家族です。
そこから成長してさまざまな集団に属するわけですが、
家族の中でOKなことも、外に出るとOKではなくなったりします。
そして、人の数だけ、いろんな価値観や感情があって、
さまざまに通用しないことを学びます。
そうやって、揉まれて揉まれて、
結果、これが私!!!っていう自分を確立していくことが
素晴らしいと思ってます。

よその居場所を知り、
若干、厳しさを感じたお休み学園ですが、
それでも、やっぱり、自立と責任は、子どもたちが巣立っていく時には、
しっかり持っていて欲しいと思う宝物だから。
自由を謳歌するために、不可欠だと思っているからこそ、
やっぱり、私は、日々の時間の中で、人に揉まれて、自分で掴むことを大切に、
子どもたちと共有していきたいなと、思いました。